2025年10月6日、スウェーデンのカロリンスカ研究所が発表
ノーベル生理学・医学賞に、免疫学者の坂口志文(さかぐち・しもん)氏が選ばれました。
授与理由は、免疫の自己寛容を守る制御性T細胞(Treg)の発見と機能解明です。
医学・創薬・移植医療に広く波及した画期的な発見として高く評価されました。
授賞式は、12月10日に予定されています。
この記事では、出身校と学生期の歩みを中心に、エピソードも交えて分かりやすくお届けします。
ぜひ最後までお読みいただき、この記事が皆様にとって価値ある情報となれば幸いです。
坂口志文氏のプロフィール

項目 | 内容 |
---|---|
氏名 | 坂口 志文(さかぐち しもん) |
生年月日 | 1951年1月19日(滋賀県長浜市出身) |
現職・称号 | 大阪大学 免疫学フロンティア研究センター(IFReC) 特任教授/京都大学 名誉教授 |
受賞 | ノーベル生理学・医学賞(2025年)ほか(ガードナー国際賞等) |
研究分野 | 免疫学(制御性T細胞、免疫寛容) |
坂口志文氏の学歴は?

公開されていた情報を基に掲載いたしました。
そのため新たな情報が確認され次第、速やかに内容を更新いたします。何卒ご理解いただければ幸いです。
坂口志文氏の学歴は?|小学校

琵琶湖や伊吹山の自然に囲まれて育ち、家で本を読みふける時間が多かったようです。
父は京都学派で哲学を学んだ教育者で、家には本が多く知的刺激の高い環境だったと語っています。
坂口志文氏の学歴は?|中学校

美術部で塑像や絵に熱中し、コンクールの表彰状を集めるほど制作に打ち込んだ時期でした。
当時は絵描きか彫刻家を志していたと回想しており、創作への関心が強かったことがうかがえます。
坂口志文氏の学歴は?|高校

父が校長を務めていた滋賀県立長浜北高校へ進学。
「進学に力を入れるから来ないか」という父の誘いが進路決定の決め手になったと述べています。
坂口志文氏の学歴は?|大学
※ジョンズ・ホプキンス大学・スタンフォード大学での客員研究員、米スクリプス研究所での助教授など国際的な履歴が続きます。

一浪して京都大学医学部に入学。
入学当初は大学紛争の影響で教養部が閉鎖され、独学で語学や哲学を学ぶ期間が続いたと語っています。
当初は精神科医志望だったが、講義で免疫学に出会い「自己と非自己」という哲学的テーマに通じると感じ、基礎研究へ舵を切りました。
大学院在学中に愛知県がんセンターの論文に衝撃を受け、無給研究生として現象の解明に没頭。
ここでの着想が後の制御性T細胞(Treg)研究の礎になりました。
坂口志文氏の学生時代・エピソード3選
エピソード①:基礎医学への舵切り
京大医学部在学中に免疫学と出会い、臨床志向から基礎・免疫学へ舵を切ったと語られています。
のちのTreg研究の萌芽はこの時期に芽生えたといえます。
エピソード②:国際環境で磨いた研究眼
博士取得後、ジョンズ・ホプキンス→スタンフォードと米国の最前線でトレーニングを積み、研究仮説の立て方・検証手順を徹底して鍛えました。
帰国後の成果量産の下地は、若手期の海外研鑽にあります。
エピソード③:主流に逆らう勇気
当時は賛否が割れた「抑制性T細胞」概念に挑み、長期にわたる実験の積み上げで制御性T細胞(Treg)の存在と役割を確立しました。
評価が定まりにくい時期にも仮説を離さず、後年の世界的評価につなげました。
坂口志文氏の学歴・主要研究歴【一覧表】
年 | 学歴・研究歴 |
---|---|
1951 | 滋賀県長浜市生まれ |
〜 | (小学校名は未公表) |
1960年代 | 長浜市立びわ中学校 |
1960年代後半〜70年代前半 | 滋賀県立 長浜北高等学校 |
1976 | 京都大学 医学部 医学科 卒業 |
1983 | 京都大学 医学博士(免疫学)取得 |
1980s | ジョンズ・ホプキンス大学/スタンフォード大学 客員研究員、米スクリプス研究所 助教授などで研究 |
1999→ | 京都大学 再生医科学研究所 教授(のち所長) |
2011→ | 大阪大学 IFReC 教授(現・特任教授) |
2025 | ノーベル生理学・医学賞 受賞(Brunkow氏・Ramsdell氏と共同) |
まとめ:坂口志文氏の学歴は?
・中学:びわ中学校
・高校:長浜北高校
・大学:京都大学医学部→医学博士
若手期から海外最前線で研鑽を重ね、
地道に積み重ねてきた研究と、主流にとらわれず挑戦し続けた探究心が、ついに2025年のノーベル賞という形で実を結びました。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。この記事が少しでもお役に立てれば幸いです。
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